グーグルについての些細な考察という戯言もどき

これ、今日の社会学のゼミ発表の時に使った文章で、発表の直前1時間くらいで作ったものなんですけど、意外とおもろいこと考えれたので、ブログにあげとこうと思いましたので、あげますじょ。

 

Googleについて

 名前の由来 10の100乗を表す数学用語googolをもじったもの。

ちょっとした歴史

 Googleは1996年スタンフォード大学の博士課程に在籍していたラリーペイジとセルゲイブリンによって創業された。初めはBackRub(バックラブ)という名の検索エンジンだった。その後、様々な会社を買収したり(グーグルアースのために人工衛星の会社買収したりyoutube買収したり)、提携したりして拡大していき今の状態に。検索エンジン分野だけでなく、人工知能や自動運転など、現代テクノロジーの幅広い分野に手を伸ばして、研究開発、投資を行っている。

 

ググるという言葉について

 チキるとか、バグる と言ったように何かを動詞化するのはそれほど珍しいお話ではない。いつこの言葉が出始めたか正確な時期はわからないが、英語圏でも「ググる」とように、動詞として、Googleで検索するという意味でgoogleの語が用いられている。これは2001年頃に登場し始めた表現とされ、有名な英語辞書のひとつであるウェブスター英語辞典にも記されている。なので、日本語のググるもだいたいこの時期に生まれた言葉なのではないかと推測される。

 

ググレカスvsすぐググるんじゃない

 世の中でこのような意見の対立がある。そんなもんググればわかるだろ、という、自分で調べればわかることくらい、いちいち人に聞くな、という意味で使われる「ググレカス」と、大学教員などの教育者側によく見られる「wikipediaは信用できんから使うな」などといったようなネットから得られる情報に批判的な意見の対立である。もちろんこれは、知識のレベルが、「ググレカス」と「すぐググるんじゃない」で異なっているため、同じ次元の話として語ることのできないものかもしれない。だがしかし、この二つの意見を考察することで得られる知見というのは価値あるものだろう。おそらく、大学教員がすぐにググることをお勧めしないのは、コピペをしてレポート課題などを提出してくる輩が多いからに違いない。教科書には、思考の劣化とあるが、ただの知識をネット検索から取り入れる上では問題ないと思われる。ただ、ネットで思想、考え方をも簡単に検索することができるため、自分で深く考えずにその思想、考え方を取り入れてしまう、という意味での、思考の劣化、というのは考えられることかもしれない。そういう意味でも、近年、情報リテラシーが大事だと言われ、簡単に考え方、思想を受け入れないようにしよう、と世間で言われているのではないだろうか。だが、やはり、わざわざ辞書引きや図書館に行かないとわからない情報を手元で簡単に調べることができるのは、時間の短縮になって、人々の時間的余裕を生み、その余裕が人々の生き方を少しっずつ変えてきたことは間違いのないことだと思う。(また、余裕が生まれるというよりは、より一層人間のやることが増えてややこしくなったという意見もある)これは、ある意味、人工知能が人間の余暇を生み出し、その余暇の利用方法をめぐって人間の生き方を変えていく、というのと同じ考え方なのかもしれない。また、知識と知識が結びつくことによって新たなイノベーションが起こる、という近年よく言われるイノベーションの観点から見てみれば、「ググる」が小さくとも日々そこらかしこでイノベーションの一助になっているとも言うことができる。

 

ググるの新たなリスク

 近年の大きな懸念として、世界がグーグルの一強になってしまうのではないか、ということだ。というのも、世の中の様々なところで行なわれているビジネスというのは、ビックデータから得られる顧客の嗜好傾向を分析して方針が決定されることが多々あり、これからもますますその傾向が増していくだろう。そのビッグデータを保持しているのは、なんといってもグーグルである。一人一人の検索データや位置情報が集約されてビッグデータとなり、その情報がとても重要なものになるのだ。近年、人工知能人工知能と騒がれているが、そもそも人工知能は、ビックデータを食わせなければ、意味がない。その人工知能の開発にグーグルはますます投資に意欲的になり、グーグルの資本力を考えれば、ますますグーグルの市場独占力が増す、ということも十分考えられるのではなかろうか。そもそも、我々が使っている検索エンジンも、人工知能技術の賜物である。ググレカスという言葉で騒いでいた時代は牧歌的だ、という一文は、すでにそのようなグーグルによる世界征服ともいうべき物語の序章がすでに始まっていることを意味してのものなのかもしれない。別にそれが良いことなのか悪いことなのかはまた別のお話なのだが

問題提起感想

 情報を与えてしまっているということを知ることがまずは大事なことだと思う。また、このようなことがこれから先進んでいったとして、どのような未来が待っていて、どのような問題が生じてくるのだろう

 

てな感じでグーグル特集してみたけど、はっきり言って、しょーもない記事になりましたが、今度は人工知能についてのしょーもない記事を書けたらなと思いまっする。正直、グーグルが人間社会に与えた影響とか、なんでヤフーとかを差し置いてグーグルがここまで拡大したのか(健康的で人気がありためになる記事が上位に上がってくるアルゴリズムがキーになっているらしい)っていうことは、考え出せばきりがないんでしょうけど、今日は学生らしくこの程度の低次元なお話しか載せれませんでしたし、そのレベルのお話しかまだできる能力がありません。すんません。あと、近況報告を勝手にすると、文系だけど人工知能の将来の有望さに最近脱帽してるので、理転するのもありかなとか考えている今日この頃です。どーせしないだろうけど。はいではさようなら。

作家の卵の白身にすら及ばないソレガシ

なんだろうか、この圧倒的支配力を持った漆黒の雨雲は。毎晩毎晩、この雨雲が、僕の心を覆いつくしてくる。目をつぶれば、すぐに、ウワ〜と押し寄せてくる。この感情は、医学的に、あるいは心理学、脳科学的に当然のごとく解明されているのだろうけど、そんなことは僕にとって知ったこっちゃない。ただただ自己の中で、この雨雲と真っ向から向き合うだけ。たまにその雨雲は、僕のことを弱者と呼び、嘲笑ってくる。嘲笑ってくるから、僕はクソウと思って、その雨雲に真っ向から戦いを挑んで突き進んでいく。すると、いつの間にか朝になって雨雲はいつの間にか居なくなっている。こんな感じに、僕のことを弱者とあざ笑う雨雲は、少し恐怖を感じるが、すぐに倒してしまうことができる。本当に恐ろしいのは、無言の雨雲だ。この雨雲は本当に手強い。なんてったって、嘲笑ってこないのだ。敵か味方かも分からない。ただ、そこにいるのだ。その無言の雨雲に、なぜお前はそこにいるのだ、と聞いても全く返事が返ってこない。そこで、少しその雨雲に触れてみる。しかし、何の反応もない。僕は、今夜この雨雲に真っ向から戦いを挑んで突き進まなければならない。さてどうしたものか。どうすれば、この雨雲を倒せるのだろう。あまりにも理解し難いものが、目の前でズッシリと構えられるほど恐ろしいものはない。あぁ、どうしたらいいのだろう。進むのが怖いよぅ。そこで僕は少し考えてみる。そうか、この得体の知れない漆黒の塊とお友達になってしまえばいいんだ。でも、忘れていた。この雨雲はしゃべらないんだった。その時、「おいお前、聞こえるか。おーい・・・おーーーい!」という声が聞こえた気がした。すぐに僕は周りを見渡した。でも、自分以外にこの空間に入ってこれる人間がいるわけがない。しかも、今回の雨雲は、無言の雲だ。喋る奴なんて今ここに存在しようがないのだ。するとまた、「おーーい」と聞こえてくる。その時、僕はようやく気付いたのである。その声は、僕の心の中から聞こえてくる声だ。「やっと気付いたか。おいらの名は、シロ。おいらはあの無言の雲を操作してるんや。しゃべりかけても返事せんのは、当然のことじゃ。あれはおいらのおもちゃなんだ。ところで、お前の名前はなんじゃ?」僕はこの質問をしてくる、シロというやつがあまりにも怪しく感じて、咄嗟に偽名を言った。「油歯無だ」「ところで、なぜお前は俺の心の中に住み着いている。そもそも、ここが心の世界なのに、その世界にいる僕の心に存在しているってのは、とても理解し難いことだ。教えておくれ」すると、そのシロというやつは、ヘッヘッヘと笑い、僕の心の中から飛び出して、無言の雨雲に突っ込んでいった。僕は咄嗟に逃がすまいとあとを追いかけた。そしてすぐ後悔する。あぁ、こんな、先も見えない雨雲の中に迷い込んでしまった。誰か助けてくれ。そのように心底思ったら、またシロの声が聞こえてきた。「オーイ、こっちだよう」その声に従って突き進んでいくと、いつの間にか、僕はその雨雲の中をくぐりぬけていた。そして後ろを振り返ると、そこには、真っ白で、とても綺麗な雲がもくもくと笑っていた。

SNS について

世の中で様々なSNSが開発されて使われている状況と、そのSNSの使い方が人それぞれまちまちな光景が面白く、また、自分にとってのSNSの上手い使い方というのを模索するのにちょうどいい機会だと思っちまったので、少しダラダラ文章を書き連ねてみたいと思いマッスル。

              Twitterについて
始まり
 2006年3月21日に開始
 just setting up my twttr
― Jack (@jack)
 創業者のうちの一人であるジャックドーシーのこのツイートをツイッターの開始日としている。

現代人の使い方
1 情報収集
最新の情報を早く入手できる。京都大学生であれば、キャンパスで起きていることや、キャンパス周辺にできた新しい店など、ローカルな最新情報を入手しやすい。ローカル新聞の役割の一部を担うこともできている。また、全国の地震速報もすぐ見れる。最近では、全国の風邪に関するツイートから、風邪のはやりを即察知できるカゼミルというシステムも開発されている。
➁ 出会い
裏アカウントを作って出会い系として使う人もいる。援助交際の巣窟になっていることもあり、問題点となっている。また、高校生などでは、文化祭などで少しだけ絡んだ人をフォローしてツイッターで親交を深めたりすることもある。



➂ 宣伝、広告
主に著名人がこの使い方をしている。ドナルドトランプも、宣伝を目的として故人ツイートをしていた。自分のブログやオフィシャルサイトのURLをはって集客をする人もいる。また、最近はネットビジネスと称して学生とDMでコンタクトをとるために利用する人間も続出中。
➃ エンターテイメント的使い方
ユーチューバーの動画や面白動画、面白画像を楽しんだり、「暇な女子大生」のような、巧みな文章力でアカウントをブランド化する人も出てきている。
➄ 友人との絡み
ラインやメールではなく、あえてツイッターで友人と会話することによって、自分らの面白いと思う会話を他の人間と共有させようとする意図がある。また、いいねボタンを押すことによって、軽いものではあるが他者とのつながりを確認することもできる。写真をあげて幸せの共有を図るために使うこともあるが、最近はinstagramがその役割を代替し始めている。
➅ 自らツイート
近況や考え、アイデアを述べる。

問題提起
とにかく、後悔のないツイッター利用が大事。暇をもて余してネットサーフィンのようにsnsをあさったり、グダグダとツイートしてしまったことに罪悪感を感じてしまわないように(自分の場合)、利用目的をある程度再確認することが必要なのではないか。再度、リアルとバーチャルという概念について再考すべき。(リア充を追い求める努力をするべきか否か)データから見ても、若年層の利用者数が圧倒的に多く、これから世代交代していけば、もっとsns利用者数は増えて行く。そうなれば我々はsns文明の到来をなすがままに受け入れなければならない。Snsに侵食されるのではなく、便利なツールとしてうまく活用するためにも、幼少期からsnsに対する考え方をある程度健康的なものにしたてる必要がある。

最近の思う節 からのレミゼラブル

最近いろんなことに悩む。〇〇の事とか、〇〇のこととか、〇〇のこととか。何でこんなに悩むんだろうって考えた時に、自分が今何をやりたいかってのがわかってないのか、あるいは没頭することがないのか、はたまた、ただの怠け者でぐうたらしてるだけで、だけど、理想はあるから余計にフラストレーションが溜まっているだけなのか、とか、いろんなことが考えられる。理由は一つだけじゃなくて、これら全部ひっくるめて今こうなっているのだろうし、まだ自分が知らないところに理由があるかもしれない。けど、その理由の中でも、この原因を解決したら大方さっぱりするだろうなってのは、あるのだと思う。

 

とかいう話は、今日の昼のお話のことで、今日のブログのメインは、レ・ミゼラブルについてです。

 

というか、レミゼから想起された僕の思いについてです。これを見おわって、一番最初に深く深く思ったことは、今こうやって昔生きた人よりも自分が間違いなく幸せに生きていられるのは、昔生きた人が、汗水流して働いたり、民主主義、自由を目指して命をかけて戦った人たちのおかげなんだなあということです。僕たちにとっては過去のことであまりよくわからないことなのだろうけれど、それでも、間違いなく、そこには、半端じゃない熱意を持って、民衆のことを心の底から愛して、民衆の、人類のことをめちゃくちゃ考え抜いて、信念を持って、間違いなく価値があるそのことに人生を捧げた人間がいるということです。本当に、その時代に、信念を曲げずに生きた人間たちのことを深く考えて欲しい。僕は、このレミゼラブルを見て、めちゃくちゃまざまざと思い描くことができて、そのおかげで号泣してしまいました。だって、彼は、命をかけてたんですよ!!!!!もう一度言います。命をかけてたんですよ!!!!!!!!!もちろん、映画ならではの、素晴らしい演出力の効果もあるのだろうけど、それでも、自分が想起したこの思いは間違いないものなのです。

 さて、そしてしばらくして泣き止んだ後、もう一つのことが頭によぎりました。それは、敵 についてです。例えばフランス革命なら、民主主義を勝ち取るには、それを勝ち取るためにいろんな人が犠牲になりました。でも、それは、革命軍側だけではなくて、敵兵も間違いなく命を捧げて死んでいるのです。その敵兵が、王家側に命を捧げれるのは、単に、上の命令に逆らわないという選択肢を考えるような教育を受けてきてないだけからかもしれないし、家族が王家の人間にとらわれているのか、あるいは、過去に王家側の人間に救われていたり、圧倒的感謝をすべき何かをしてもらっていたかもしれない。いずれにせよ、敵兵だって、根は極悪人ではないのです。というか、この世に、生まれた時から極悪人なんていう人は絶対にいないのです。この、敵側の存在にも少し頭を使ってみると、またいろんな世界が見えてきます。人類というのは、切磋琢磨というか、ちょうどいい言葉が思い浮かばないのですが、こうやって歴史を作り上げて今があるんだなあ、としみじみと思います。 

そして次に思ったのは、どちら側にも、日々の生活に間違いなく、幸せというのは存在していたということです。それは、友人と酒場で語り合った時や、恋をした時、子供が生まれた時、家族でご飯を一緒に食べている時、親子で遊んだりする時、花を誰かに渡す時、仲間とともに家を建てた時、そなへんのおじちゃんと世間話をしてる時。いろんなところに幸せは隠れているのです。これは間違いなく正のものです。(なのに人間は何ですぐ対立するのか!という話をここで持ち出すのはあまりに短絡的すぎるので、今回は省きます)これは、本当にかけがえのないもので、この世で最も価値あるものです。それを、全世界の人間は生み出そうとしなければならないし、みんな今もそれを知らず知らずのうちにか、意識してなのかはまちまちかもしれませんが、それをなしているのです。 ということから、自分も将来なにやろうかなーて考えた時に、今は、やっぱディズニーかUSJかな〜と自分の場合は思います。昔は、医者を目指してて、中学の卒業文集に、かなりアツいものを書いていたのですが、今は医学部にも行ってないし、なんか違う感じがします。でも、間違いなく、医者も人々に幸せを与えれるのは間違いありません。だから、自分に合った仕事で、誰かの役に立てたら大満足なのです。

 

はい、怒涛のごとく書きました。今回も自分の国語力のなさを露呈していますが、いちいち文章見直すのも面倒なんで、このまま投稿します。ありがとうございましたー

 

勝手な未来予想とちょっとした世界観とDISNEY!!!!! 後半真面目に書いた

おひさです。誰に対しておひさと言っているかよくわかりませんが、ここ数日、いろいろありまして、ブログ更新できてませんでした。なので今日はとことん書いてやる!という、気持ちがあるかといったら、はっきり言ってないです。単純にめんどくさくなってきましたね〜あとは、全力で自分の考えを言いたい欲求もないし、最近は勝手ながらにやらせていただいているビラ作成と読書と車校でまあまあ忙しくて、ブログに書けるようなネタを考える暇もあんまりないかな〜

 

ここで、、、何か枯渇した感じがないと、ふつふつと湧いてくる感情を言葉で全力で表そうという気分にならないなあ といことに気づきましたンゴね。

 

なので今日は、一週間くらい前にスタバで、ただの口先の評論家に成り下がってメモ帳にメモった文章をコピペしてやりたいと思います。題して、「Abrahamの勝手な未来予想とちょっとした世界観」です。最近のいろんな本とかニュースとか動画を見たりして、その共通点を少しあぶり出して書いてみたのが前半の勝手な未来予想で、後半は、自分の価値観の10%〜90%くらいをチョロっと書いてみました。箇条書き感がめちゃんこありますが、ご容赦ください。

 

生産性があがり、いわゆる作業ゲーのようなことをする人は減り、より人間味を大事にするようなことを重要視する時代が来る。例えば、airbnbuber、アマゾンの自動配達などの効率化によって余暇が生まれると、そうやって人工知能や効率化を図るシステム開発をする仕事と人間を感動させたり、笑わせたりする仕事(遊び)が増える。これは、幸せなことだよね。となると、そのエンターテイメントには、ただ人を喜ばせるだけでなく、そこにより生を見出すようになれば、これまで以上にそれなりのビジョンのある哲学が必要だと思うんだす。だけど、今の周りに生きる人間を見ると、何かしらしっかりとしたビジョンを描けている人間というのはあまりにも少なすぎる、もちろん、自分も明確なビジョンを描けているわけではないが、描こうとする努力はしているつもりである。僕の場合、この世界全員の人間が幸福になればいいと思っているが、なんかその考え方はおこがましい感じがするので、この世界の人間の不幸がなくなればいいと思うことにしている。自分が生きているうちにこれが達成されるとはさらさら思っていないが、少なくとも、ビジョンとしてこれ以外に素晴らしい、価値があると思えるものはまだ思い浮かばない。ある意味、ディズニーのような理念が好きなのかもしれない。

 

というか、そもそもみんなは、そこまで、死んだ後の世界とか、この世がなんで存在するかとか、どうやってこの世ができたかとか、なぜ生きるのかとか、未来はこの先どんな風に進んで行くのか、とかに興味が全くないのか。あったとしても、どうせ答えは出ないので考えても無駄だと思うから考えないのか。あるいは、忙しくてそんなこと考える暇なんかねーよ、っていう人もいるかもしれない。純粋に不思議に思う感覚が薄くなっているのか。よく分からない。これを不思議に思うということに、分からないということに、僕は全人類の共通点を見出し、世界を平和にしていきたい、と思うことがある。これって、ある意味、神を崇拝するっていう感覚と同じなのかもしれない。分からないものを、すべて神に集約して、それを共通の崇める対象として、平和に導く的な。と考えると、宗教が発展した時代って、苦しみの多い時代だったから(世界史日本史をある程度知ってれば自明)、僕がさっきあげた疑問を持つためには、何か枯渇して苦しみを味わわないといけないのか。でも、別に自分がそんなめちゃくちゃヤバイ苦しみを味わったことってたぶんないしな。ないと思ってるだけで、実際味わったことがあるのかもしれんけど・・・

 

はい、完全に迷走しました。だんだん恥ずかしくなってきましたが、耐えます。

ここでふと思うのは、博愛主義的な理念て良いものだと思いますね。ちょっと、ディズニーテーマパークの理念のコピペしてみます。

 

世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界。
 「私はディズニーランドが、幸福を感じてもらえる場所、大人も子供も、ともに生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえるような場所であってほしいと願っています。」というウォルト・ディズニーの言葉があります。
 あらゆる世代の人々が一緒になって楽しむことができる“ファミリー・エンターテイメント”を実現したいというウォルト・ディズニーの思いがディズニーランドを生み出し、この考えがディズニーテーマパークの基本コンセプトとなっています。

 

確かに、今の現実を見てると、そんな甘ったるいこと言ってられねーぞい! っていう意見もあるとは思いますが、そーゆーことじゃなくて、あくまで最終目標は”ファミリーエンターテイメント”で、それに向かって中期的な目標を立て、現実的なことをコツコツと積み重ねていけば良い、ということを言うてるんです。もちろん、そこには、競争だってあっていいと思います。競争は競争でも、良い競争です。ただ、誠に無責任ですが、良い競争の定義は知りまへん。だから、人類は良い競争とは何なのか、ということを共に考えていくべきだと思うし、一緒に考えていきたいっすね。 

あと、先ほど、ディズニーと宗教の話に関連したニュースを見たのでそのことに触れておきたいと思います。近日公開の、美女と野獣の映画についてのことなのですが、米ウォルト・ディズニーは、実写版映画「美女と野獣」から、同性愛のキャラクターが登場するシーンをカットするよりも、マレーシアの映画館での上映を無期限延期することを選んだそうです。マレーシアは、宗教的に同性愛に対して厳しく、法律で禁じられています。そのため、仮に映画に出てくるとしても、ゲイを蔑んだり見下すような描写でしか使ってはいけないそうです。この、しきたりに対して、ディズニーは理念的に対立し、上映を延期する措置を取ったのでしょう。ある意味、これは宗教と宗教の対立です。あなたが最高責任者なら、公開シーンをカットしてマレーシアで上映させていましたか?それとも、現ディズニーがした措置と同じことをしてましたか? もし、自分が同性愛シーンをカットして上映するなら、同性愛を禁止する宗教をまた、博愛主義的な、自由な幸せを尊重しようとする観点からその選択をするかもしれません。ですがやはり、上映します、ということはすなわち、同性愛禁止のシステムを地域によっては許容します、ということと同じことではないでしょうか。もし、ただ単にマレーシアはマレーシア、アメリカはアメリカ、というように世界を割り切って世の中を捉えていたら、ディズニーも簡単にシーンをカットして上映していたでしょう。上映すれば、お金だって入ってくるし、ディズニーの認知度は上がるし、いいことづくめといえばいいことづくめです。それを押し切って、シーンカットを拒否し上映延期という行動に移せたのは、世界を一体のものとして捉え、同性愛は必ずや許容されるべきものであるしそのような多様性を許容する社会が理想の社会である、という理念は人類が生きてく上で良い方向へ導いてゆくものの一つになるにちがいない、という確信があったからに他ならないと思います。このように、世界規模で人類の進むべき道を模索して行動にうつすディズニーという組織に、とても僕は魅力を感じます。こんな感じに全世界の人間が地球規模で物事を考えることができれば、人類は飛躍的にもっと良い方向へすすむ、と僕は思います。常に、世界を飛び回って生きろ、とか、全員外交関係に携わるべきだ、とかいうことではなく、世界の出来事を自分の環境に容易に落とし込んで解釈することができ、また自分の身の回りの出来事が世界にどんな影響を与えるかということを、常に考えることができることが大事なのではないだろうか、ということをいっているのです。ただ、そのためには、思想的なお話だけでなく、そうやって地球規模で考えられる余裕を持てるくらい、いろんな部分が豊かにならなければ、それは達成されないでしょう。ですが、今の日本の学生について考えてみてください。どう考えても裕福で余裕がある人間が山ほどいるのに、このような思考に至りません。これは、いささか問題だと思います。おそらくこれは、経済の問題というよりは、主に教育の問題なのだと思います。この問題は、教育が良くなれば一気に解決に向かうものです。教育といっても、いろんなやり方があると思いますから、初等教育、あるいは高等教育を変えるだけで解決に直結するとは思いません。なので、教育のどの領域を改善すると、最善で最大のインパクトを与えることができるのか、ということをこれから少しずつ暇があれば、模索していきます。いや、一緒にあなたも模索していきましょう。

 

はい、またイキった文章書きました。どの口がそんな戯言を吐くんじゃと思う気持ちはわかります。自分も、どの口が喋ってるのかわかりませんが、許してちょんまげ。

 

たぶん今までの記事の中で、最も文章力のないものでしたが、

 

 

頭ボーッとしてきたのでさよなら。

 

 

 

 

 

国際交流ビミョウにしたいんだけどパート1(2ないかも)

こんばんわーーーーーーーーい!!!

 

最近の私めは、実は、国際交流を何かしらしようと、脳内シミュレーション試行錯誤をたまに行う日々を過ごしております。

 

一番初めに思いついたアイデアは、国際交流バドミントン試合ですね。夏休みだったかと思いますが、タイからやってきた留学生ガールがたまたま京大体育館でバドミントンをしていて、かなりうまかったので、声をかけて、僕の友達とタイガール二人と一緒にダブルスさせてもらいました。はい、バリうまかったです。僕の打ったスマッシュのレシーブが全部、キワい所に返されます。

多分、この経験がバドミントンでの国際交流というアイデアを生み出す大きな一つのきっかけとなったのではないでしょうか。つまり、「なるへそ。バドミントン経験者留学生て、案外おるんやな。しかもうまいし」と思ったわけです。タイガール以外にも、留学生バドミントン経験者で二、三人の出会いはありました。

で、そこで、京都にいる留学生たちとバド経験者ジャパニーズを集めて、国際交流試合するのもありじゃねと思ったり、あるいは、サークルの旅行合宿で、韓国かマレーシアに行き、現地のバドミントンサークルなるものに所属している学生たちと試合するってのもありかなとか思ったりしました。もし、資金に困るなら、国際交流の重要性と、この企画が未来に及ぼす良い影響と実際にこの企画が将来どの世に発展していくかを大学側とかに提示し力説すれば、いくらでも資金援助は来るのではないかと思って、資金面に関しては何の危機感もありませんでした。もっとも問題だったのは、それにワクワクして賛同してくれるメイツがあまりにも少ないということです。そもそも世界というものの感覚が鈍いのか、単純に興味がないのか、はわかりませんが、とにかく反応が悪い。で、まあ、こうやって自分の小さなコミュニティの中での賛同者の少なさによって一瞬で萎えてしまう、自分のメンタリティの雑魚さもあってか、今はあまりそのことは考えることはありません。(ちなみに、韓国には日本のサークルみたいなものは存在しないらしいです)

 

じゃあ、今は何を考えているか。今所属しているサークル(バドミントンサークルor雑誌サークル)に留学生を勧誘する or  インターナショナルバドミントンサークルを作る or  留学生とジャパニーズサークルのマッチングサービスをするサークル団体を作る   です!

 

と書きましたが.....つい今、国際交流ヲタクの友人と電話して、とりあえず、今所属しているサークルにバド経験者留学生を新歓する目処が立ちまして、テンションアゲアゲでございます。まだ、この計画が本当に実行されるのかは、わかりませんが、うまくいっている未来を描くと、ワクワクノンストップっす。その国際交流ヲタクとはそこまで絡む関係ではなかったのですが、世界に大いに興味を持っていておもろそうな人間だったので、とりあえず自分から結構テキトーに絡みにいったら、海外インターンに行ったりいろんなことをしていてなかなか魅力的な人間でした。どうやら彼は、今は、留学生が、なかなかジャパニーズのコミュニティに入り込めない現状をどうにか改善するために、留学生用の雑誌を作ろうとしてるみたいです。他にも、アイデア練り練り中らしく、今後の進行が楽しみっすね。自分は雑誌を作るサークルにも入っているので、そこで留学生特集なんてのをコラボってやってみるのもありかもしれません。

 

とまあ、こんな感じなことを考えております。今後の計画としては、留学生用のビラを作って、留学生寮にビラを配りに行く、といった感じやと思うじゃけん。

 

ただ、忘れてはいけない問題が、今自分が所属しているサークルにそれほどのキャパがあるかどうかです。異国の人間とバドミントンで繋がれるってのは、とても魅力的なことだし、その関わりによっていろんな知見を得ることができることは間違いないと思うんですけど、もし、その留学生が、今まで築き上げてきた平和なコミュニティや伝統の暴君破壊者的な感覚で捉えらてしまったら、それで終わりです。なかなか、難しい問題ですが、僕は、留学生勧誘に関して、圧倒的メリットしかないと信じているので、そこそこ頑張ってみたいと思う今日この頃です。

 

なんかこの話題って、オバマトランプの移民問題とか、白人主義と少し似通った問題が絡んでそうなので、今日はこなへんにしといて、明日あたりに、国際交流についてもう少し考察してみたいと思います。本当に明日考察するかは明日の気分次第ですけどももももももも桃

 

明日は、車校の技能第一回目があって、寝坊すると、かなりのマネーをどぶに捨てることになるので、もうオフトゥンにダイブします。

 

はゔぁないすどりーむ

 

Back to Kyoto and この世どうやって始まったンゴ?

帰ってきましたfrom香川〜

 

サークル合宿めちゃおもろかったです。

 

一応、わたくしめ、サークルの幹部をやらせていただいておりまして、今回はしおり作りとその他もろもろ簡単なことをタスクとしてやらさせていただきました。

 

初め、しおり作りをするのがめんどくさく、また、しおりを作ってもどーせそこまで読み込まれないし、情報を入手することに第1目的があるのなら、圧倒的にしおりのアプリケーションを使った方が良いなと思っていたのですが、諸事情により、紙しおりをつくることになりました。

 

で、最初の方は、ワードで簡単に文章書いて仕上げるつもりだったのですが、ふとしたことで、イラストレーターを使うことになり、イラレでしおりを作ることに少しハマりました。でまぁワードしおりよりはクォリティ高めのものをいつのまにか作ってました。

 

このしおり作りで自己再確認をしたことがありまして、それは、やはり自分はエンターテイメント好きだということですね。そこに世界観を設けて受け手を楽しませる、あるいは感動させる、ということにワクワクしちゃいます。自分が何かを仕掛けて、人の心が何かしら良い方向に動くということに、この上ない至福を感じます。(ゆえにディズニーは最高やねん)だから、直前になって修正箇所が見つかった時、エンタメ性をとるか見やすさをとるかという選択に迫られたことがありまして、エンタメ性をチョイスしちまいました。もうちょい時間があれば、エンタメ性と見やすさ読みやすさの両立をはかることができたんですけど、経験、時間不足という言い訳によりそれは一蹴することにします。

 

さてさて、で、もう一度いいますが、合宿、楽しかったです。合宿を主催してくださった自分以外の幹部の人たちにまず、感謝を述べるべたいです。自分だったらめんどくさくてやってらんないようなことをしてくれて、それが自分がやりたいことをする時間の獲得にもつながります。それが、もしかしたら他の人のやりたいことをするための時間の獲得に繋がってるかもしれないし。いろんな別の観点からみても、感謝すべき理由はほいほいでてきます。

そして、幹部だけでなく、幹部以外のサークル民の存在がこの合宿をおもしろくさせているということも忘れてはなりませぬ。面白いことがよりおもしろくなるのは、周りの人間がそれを面白いと思い、盛り上げてくれるからで、その盛り上げがなければ、ここまでの面白さを味わうことはできません。おおきに。

 

プラスα、飲み会でのサークル民との議論からの収穫はえげつやばかったっすね。まず、こうやって議論できる人間が、本の中だけでなく、周りにも実際にいるってことに感激したし、言語化できるほどのしっかりとした世界観をそれぞれがちゃんともっているということにも感激しました。自分が所属している環境も捨てたもんじゃねーな、とかイキッてますが、思っちゃいましたね。

その議論内容を録音しとけば良かったと後悔しておる今日この頃です。

 

ほとんど文系思想をもった先輩3人と話してた時に得た最も有意義なことは、理想論を確固たる概念として抱き、それを実現しようとすると、さすがにそれを自分の生きている時間で達成するのは無理そうだなぁと察して、やはり自分は所詮この世のはちっぽけな存在である、と再確認できたことです。他にも、自分が人生を通してやりたいことってのを、質問と応答の対話によって明確化していく過程を経たりしまた。ちなみに、僕の根本的な人生第一目標は、この世の人間が幸せになること、です。けど、常にそれが念頭に置かれた行動をしているかといったら、全くそんなことがないのが現状ですが…

そういった対話をすることによって、よりはっきりしたものとして心に刻むことができたんですね。

もう一つ、理系の先輩と対話して画期的な概念を知りました。それは、この世の始まりというのはなく、常にこの世は振動している、というものです。僕は、あるゼロの点がなにかの拍子にピーンとはじかれて、プラスとマイナスに分かれて動き始め、その動きが、ある意味運動の法則的な感じで相互作用を請け合ってこの世界が生まれた、と思ってました。それに対し、もとからこの世が振動してプラスマイナスが生まれているという概念は、そもそも始まりがない、ということを指しているのです。始まりという概念は、実は、この人間界の、生まれた時とか3時からとか、そーゆーある一定範囲で言われているときの始まりなのです。人間は始まりという概念を当たり前のように使っていますから、この世にも始まりがあるだろうと勝手に思い込んでしまいます。でもそれは違って無限の過去から無限の未来へ常にこの世は振動し続けていて始まりうんぬんのお話ではない、ということです。これは、かなり文系ピーポーの僕にとっては、完全に思い込みの蓋が外れた瞬間でした。ということで、今は少し、無限、という概念に興味を持ち始めいる所存でございます。

 

これ以外にもいろんな話をして、いろんなことをして、ひじょーーーーーに有意義でした〜。酒の力、パナいっすわ。ほんまありがとうございます。

 

まだまだ文章を書こうと思えば、いくらでもかけると思うんですが、疲労困ぱいで眠たすぎるので寝ます。拙い文章ですが読んでくださり、おおきに。